本編が終わったときから書こうと思っていた「外伝」。頑張って書き続けました。でも、なぜかぜんぜん調子が出ませんでした。苦しみました。とりあえず何も考えずに書いちゃいました。プリントアウトして構成からやり直そうと思いました。段組みにして8ptでびっちり印字しました。A4です。出てきました。40枚以上。
ショック。
やけになって思いつくまま書いちゃったのが敗因です。とうぜん散漫な内容。テーマがあっち行ったりこっちへ来たり。これをどうやって書き直そうかと。A4・43枚。しくしく。
その後も頑張って書き直していたのですが、どうにもうまくまとまりません。仕方なくあきらめることにしました。書き上げるだけの「勢い」が自分のなかにわいてこないのです。楽しみにしててくださった方には申しわけなく思います。
でも、書く過程でいろんな人からお話を聞いたりいろんなサイトを見せていただいて勉強しました。完全に没にするにはもったいないので
(貧乏人根性)、書きたかった内容だけをぽつりぽつりとメモしていくとします。
■ 「精神障害」って悪いことなの?
本編のなかで
セミナーを受けると精神障害になることもある
だからセミナーは良くない
という感じのことを私は書きました。この理屈、自分では短絡的に過ぎたような気がしていました。
そもそも「精神障害」って「悪いこと」なんでしょうか。
そういう症状に苦しめられている方が多くいらっしゃることは存じあげています。セミナーをきっかけに発現された事例や悪化された事例もあるようです。また、セミナー中に死者が出たこともあるそうです。
それを承知のうえで思うのですけれど。
「精神障害」って「悪いこと」なんでしょうか。
障害の種類にもよりますが、それを自己実現への過程として捉える考え方もあるみたいです。
あ、ここでいう「自己実現」とは、啓発的な業界で安易に使われている用語ではありません。分析心理学的な用語です。そういう立場からすれば、必ずしも「悪いこと」だとは言えないようです。
極端な例ですけれど、たとえば「不登校」。単純に見たら学校をさぼっているだけに見えても、その背景にはその人自身の成長の問題が隠されていたり、世代をさかのぼった家族関係の課題が凝縮されていたり、大きく見ると社会や教育の問題があったりするようです。そして現象的な「不登校」が解消されたとき、家族関係もその人自身も大きく成長したりするようです。
そういう意味からすると「不登校」も成長の一過程だと言える。同じように、いわゆる精神障害もひとつの契機として捉えることが可能なようです。ですので、精神障害だからといって決して「悪い」と言い切ることはできないのではないか。なにごとにも破壊的な側面と建設的な側面があるように、「悪い」と決めつけることはできないのではないか。
そんなふうに思っています。
だからといって「精神障害」を「良い」というつもりはありませんし、セミナーを悪くないと言うつもりもありませんけれど。ただ、私が以前に書いた理屈は少し短絡的だと思ったのでした。
(つづく)
■ セミナーで使う手法って、何が悪いの?
深夜にまでわたる監禁じみた詰め込み授業。参加者を憔悴させての議論。激しい叱責とやさしい励まし。大音響の感動体験…・。
六助さんのお話を聞いていると、すべての手法が異常としか思えません。信じがたいことに組織によっては「セックス実習」と呼ばれるものまであったそうです。恐怖です。
でも、よく考えてみたら、それって昔から宗教などで使われてきた手法に似ているような気もします。必ずしもカルトだけではありません。たとえば、マンダラに向かっての深夜の瞑想。ステンドグラスの巨大な教会に満ちる祈り。ドームの天井に反射して響き渡るコーラン。スーフィの旋回運動。あるいは激しい禅問答。濃密なお香と太鼓と鉦。単調に続くお経。唱え続けるマントラ。シャーマンの激しいダンス。そしてまた「神のキノコ」…・。
いずれも、なにごとか
(「神」と呼ばれるものなど)と一体化するための仕掛けのように思えます。
どれも部外者から見たら異常かもしれませんが、それらの手法それ自体を否定する気には私はなれません。へたしたら宗教ぜんぶを否定することになってしまうと思うのです。
宗教だけじゃありません。音楽もそうです。ライヴの熱狂もある意味では宗教的な交感だという見方もありますし、そもそもゴスペルとかは本来は濃厚な宗教的行為だったようです。演奏者のインプロビゼーションが火花を散らすジャズだって、ある意味では宗教的体験に似ているような気がします。その「場」では「意識を超えた力」が働くと思うのです。雅楽だってケチャだってガムランだって、みんなそんな感じがします。
極言すると、芸術と呼ばれるものはぜんぶそうだと思うのです。すぐれた芸術を生み出す力は、部外者から見れば異常なほどの状況から湧いてくるような気がします。それに、前回とのからみで言うと、有名な芸術家が神経症に悩まされていたという事例もいっぱいあるそうです。
話がどんどんずれちゃうのが私の悪い癖です。
ともかく、だからセミナーの「手法それ自体が悪い」とは決して言えないと思うに至りました。
(その使用方法や使用目的は別の話)
上にあげたような宗教とセミナーの違いは、なんでしょうか。
本人に積極性があるかどうかということ。そしてそれが社会に根ざしているかどうかという点にあるような気がします。少なくともかつての宗教や芸術は、社会的文化的な必然性が大きかったんだと思うのです。だからそれぞれの時代と社会のなかで脈々と生命力を保ってきたんだと思います。
とはいえ、セミナーにもなんらかの社会的必然性があるに違いありません。さもなければ発生しなかったでしょうし、続いていないと思うのです。
ただ、どれほど建設的な意義があるかどうかについては、私は「???」なのですけれど。
(「ない」とも断言しませんが)
(つづく)